水上紅蘭の温かい雷雨の日

「こんにちはー 今日は風も強いですねぇ」

 

出勤日でないにも関わらず、彼女は苦笑いしながら店にやってきた。

 

彼女が床に向けた閉じられた傘は、相当な量の雨を弾いたらしく、

傘からは止めどなく雨水が流れ落ちている。

 

外の雨は強く、客の出入りもほぼ0に等しい状況。

天気はこれから夕方に掛けて崩れるのだとキャスターが言っていた。

 

慌てて私が店の奥にまで取りに行ったタオルを渡す。

彼女は水飛沫で濡れたスカートの裾や、

長い靴下を苦笑いしながら拭き取っていた。

 

 

雷の鳴る雨の日は、嫌いでね。

雷雨だった彼女の出勤日に、ぽつりと呟いた。

 

いい年をして雷が苦手だなんて、笑われるだろうか。

・・愛名ちゃんはそんな人ではないけれど。

 

ちら、と顔を上げて見た彼女は「あら、そうなんですか?」と。

 

「人が居れば少しでも気分マシになりますか?」

「え? あぁ、うん それは、もう」

「そっか。 それなら私、雨の日にはお店来ますね」

「え?」

 

その日から愛名ちゃんは雨の日、特に雷が鳴るような日は

決まって私のお店にずっと、雷と雨が止むまで、

雷と雨が止まなかった場合は閉店時間ギリギリまで居るのだ。

 

「遅くなると危ないから」と、彼女の身を案じ、

帰らせようとしたこともあったが、彼女は首を横に振って。

「日付回んなきゃ大丈夫です」なんて笑みを浮かべた。 違う、そうじゃない

 

流石に心配なのか、最近は若いお兄さんの

お迎えが付くようになったけれど、この話は割愛してもいいだろう。

 

 

隣に座る彼女は、BGMの雷雨が不釣合いなほどに

優しい笑みを浮かべて喋るのだ。

 

世間話の最中、突然近くに落ちた雷に会話が途絶えた。

 

驚いたように「わっ」と声をあげて肩の跳ねた彼女と同じタイミングで、

私は背筋が震えるように体が跳ね、椅子から少し落ちかけたほどで

思わず彼女の下ろしていた手を掴んでしまった。

 

反射的に掴んでしまった彼女の手首と手の平は、温かかった。

 

「び、びっくりした・・・紅蘭さん、大丈夫ですか?」

「は、だ 大丈夫。 あぁ、驚いた・・

 手を、掴んでしまったが痛くなかったかい?」

「平気です。 今のは大きかったですね」

 

眉を寄せて苦く笑う愛名ちゃんから手を離す。

 

外ではまだ雷がゴロゴロと鳴っている。

雷の音がし出した瞬間、ギクリとするのだ。

 

雷鳴、建物越しに響く音に愛名ちゃんは少し顔を上げた。

 

「少し失礼してもいいですか?」

「? いいよ」

 

お手洗いかな、と思った私は引き止めることはしなかった。

 

彼女は椅子から立ち上がった後、

私の予想とは裏腹に何を思ったのか私の方へ振り向いて、

真正面から私を、触れる程度に、優しく抱きしめたのだ。

 

「お、おっと?」

「すみません、今日は一段と雨と雷が酷いので。 もしかしたら

 こうした方がいいのかなって思ったんですけど、効果はあるかな」

 

少し笑った気配のする彼女の表情は伺えなかった、が

愛名ちゃんのことだ、きっと優しい表情を浮かべているのだろう

 

と同時に、まさかこの年になって若い子に抱きしめられるとは露にも思わず

雷と雨の音が全て無くなったような感覚に陥ったほどに少々動揺もした。

 

「・・・愛名ちゃんの、恋人が妬くんじゃないかい?」

「あはは、居ませんよ」

「おや・・君のお迎えに来る人は恋人さんじゃないのか」

「ふふ、片想いなもので」

 

「おやおや、それなら恋人ができたら、

 こういうふうな慰め方はしてくれなくなるのかな」

「いいえ? 紅蘭さんならいつでも」

 

顔を上げた状態、彼女の肩越しに映った自分の店は

店内の明かりを直接見たからか、どことなく眩しかった。

 

雨の中、傘を差してバタバタと店にやって来たはずの彼女は

予想していたよりも体は冷えておらず、温かかった。

 

微かに規則的な鼓動が伝わる。

 

記憶に残っていた冷たい、彼が 掻き消えた

 

 

あの日からずっと雷雨は苦手だ。

今日の雨は普段よりも一段と酷く、雷も大きな音を立てて落ちた直後だった。

 

 

雨風にやられて冷えた自身の体、アパートの冷たいドアノブ

濡れた靴下越しでも伝わった冷たいフローリング

 

冷えた空気と異臭の充満する部屋で冷たくなっていた親友。

 

ただただ、冷たいものだけが存在していた、

あの日の記憶が消えることはないだろう。

 

 

ただ今日、この日だけは

雷雨だったにも関わらず、温かかった。