「……え?」
ぼーっとしているときに話しかけられて、少し反応に遅れてしまう。何か声をかけられたと理解して振り返ったとき、
真鶴さんの、俺に伸ばされた手が、いつか見た闇に紛れる黒い触手と重なって見えた。
「っ、…!」
ひゅ、と、喉の奥から堪えきれなかった息が漏れるのと、俺が真鶴さんの手を払いばしんと小気味の良い音がするのはほぼ同時だった。真鶴さんは、驚いた顔で行き場を失くした手をひっこめる。
俺に手を伸ばしたのは、真鶴さんだった。あの日見た恐ろしい化け物ではない。真鶴さんに深緑の大きな目はないし、俺を絞め殺そうとして伸ばされる黒い触手だって持っていない。それはわかっているはずなのに、首元に手が伸ばされるのがどうしようもないほどに恐ろしかった。そのままあの日のように殺されるのかもしれないと、そんな馬鹿げた考えが脳を支配する。
「…ぁ、…その、真鶴さん、ごめ、」
「あ、あぁ、いいのよ、こちらこそごめんなさいね!急に触ろうとしちゃって」
真鶴さんは申し訳なさそうに首を振る。綺麗に手入れしているのだろう手が赤くなるほど不躾に振り払ってしまったのに、真鶴さんのその目には変わらず純粋な気遣いと心配が浮かんでいる。罪悪感を少し感じた。
「いや…すまない、それで、なんて?」
「いいってば。ああ、襟元に糸くずがついてるのよ、取ろうかと思ったんだけど、いい?」
「あ、……そうか、頼む」
「ええ」
真鶴さんは殊更ゆっくりと俺に手を伸ばす。慈しむような手だった。化け物の、気持ちの悪い触手とは違う。その手が化け物の触手と重なることは、もうなかった。
「……その、悪、い」
「何度謝るのよ、気にしてないわ。けど、無理しないでね。キースケ貴方今、すごくぼーっとしてたわよ。」
まるで子を守る親のような優しい手が、襟元に触れる。勿論首が絞められることはなく、ただ一本の短い糸がふっと下に落とされた。
「はい、取れたわ」
「ああ、ありがとう」
ふう、と、一つ息をつく。
「あれ、キースケ先輩じゃないですか?こんにちは!」
「あ、ほんまや、喜助さあん!真鶴サンも!一緒にお出かけ?」
ちょうど俯いたその時だった、部下たちの声が聞こえてきたのは。
廣瀬と小鳥遊は俺が入院する以前と変わらず、ニコニコと愛想よく笑いかけてくる。
眠り、夢を見る度に心を支配する悪夢は、目を瞑るだけで簡単に頭に蘇る。狂ってしまったように夢に捕われ、寝ては起きてを繰り返すのは最近やっと無くなったが、それでもまだ日常に潜む闇からは逃れられない。俺は前より、ずっと、ずっと脆くなっていた。
けれど、周りのみんなは変わらない。俺が苦しんでいた間、嫌な顔一つせずに俺の仕事を肩代わりしてくれていたらしい。「いつもお世話になっていたから」「喜助先輩にはたくさん助けられた」そんな声が、たくさん俺に届いた。
変わらないものが、ここにあった。
風が凪ぐ。3人の談笑をBGMに、俺はそっと首を撫でる。大丈夫、もうあいつは俺の中にいない。
深呼吸をして、俺はあいつの瞳の何倍も綺麗な空を見上げた。