幸せになりましょう/✕✕✕✕の懇願

急に意識がふっと浮上して、気がついたら俺はあたり一面真っ白な世界に立っていた。

ここはどこだろうか?見回しても何もない世界にただ突っ立っていたが、ふと我に返って自分を見下ろした。

いつもと同じ格好。シャツとネクタイ、グレーのスラックス。

ちっとも伸びてくれなかった身長に、ほう、と、短く息をついた。

ゆったりと目を閉じた脳裏に浮かぶまだ鮮やかなままの2年前の記憶。

心の根本にある死は俺を過去に絡めとろうとしてくる。

 

終わらない世界、変わらない毎日。永久かと思われるようなその時間をゆっくりゆっくり歩いていたはずなのに、いつのまにかもう俺は大人になってしまっていた。深呼吸をしたら何故かまなじりに涙が浮かぶ。消化しきれなかった様々な思い出が静かに俺を苛んでいた。……その時。

 

「お久しぶりです」

 

……後ろから聞こえる声にはっと目を開いた。

どうしてだろう?さっきは周りに誰もいなかったのに。しかも今の声は、もしかして、

 

「…阿、雲、…………、っ」

 

震える声を隠すこともできない。心に浮上したその形容しがたい感情は恐ろしさか感動か。

振り返る暇さえ惜しいほどに喉が震えてその名前を紡いだら、優しいその声は「振り向いちゃダメですよ、喜助先輩」と俺の行動を遮った。…振り向いてはいけないのか。ギリシャ神話や日本神話の伝承が、ふと頭をよぎる。

……変わり果てた姿になっていたとしても、受け入れたいとは思うけれど。

 

「……喜助先輩、…みんなは今、どうしてますか」

「どう、って、……お前も知ってる通りだよ。…どうせ、見てたんだろ、全部。」

 

動揺しつつも毅然として呟くと、背後からはふふ、と軽やかな笑い声が聞こえる。

 

「そうですね。皆、元気にしていますね。…いつも通りの日常。私にはそれが、嬉しい」

「…お前、知ってるのか?小鳥遊が、……本当のことを知らないで、…今も、お前を探してること」

「……知ってますよ。親友、ですから」

 

どうにかして、戻ってこれないのか。

そんな馬鹿みたいなこと聞いてはいけないと自分でも気付いていて、咄嗟に開いた口を閉じた。

困らせては、いけない。すうっと細まった視界がぼやけているのなんて、きっと錯覚だろう。

部下たちの抱える闇に向き合ってやらないといけないと思いつつ、自分が第一に割り切らなければいけないのだと焦ってしまっていた。

 

「喜助先輩」

「…なんだ、阿雲」

「今、幸せですか?」

 

…予想外の方向から切り込んできた質問に、目を丸くした。

矢も楯もたまらず揺れる体を、振り向いちゃダメですってば、という阿雲の声で静止させられた。

質問の真意が読めない。言葉に詰まる俺を、それでも阿雲は静かに待っていた。

 

「幸せか、って?」

「…はい。先輩は、幸せですか?」

 

幸せ、って、一体なんだろう。言われてはじめて、漠然とした問いが心に落ちた。

幸せ。幸せ?今の俺にとっての幸せとは何だろうか?

ぐるぐる回る思考回路は答えを出さない。俺にとっての?幸せ?小さな疑問は心に漣を立てながら広がっていく。享受しきれない思いが俺の体に巣食っていた。

俺の幸せ?

出世すること?

金持ちになること?

ここを平和な世界にすること?

失った人々を取り戻すこと?

それとも、それとも?

 

頭を悩ませる俺に、尚も阿雲は話しかける。

 

 

「先輩は今、なんのために生きていますか?」

 

 

その言葉が、どうやら、俺の目を覚まさせたらしかった。

 

「お…れは、…俺は、……俺のために、生きてるよ」

 

ふふ、と、温かさを孕んだ笑いに俺は伏せていた顔を上げる。

もう後ろを振り向こうとはしなかった。どこまでも続く白い世界の、地平線をすっと見通した。

 

「もう一度、お伺いしますね。先輩は今、幸せですか?」

 

悲しみを抱えながらも健気に日々を過ごす部下。

そんな部下に支えられ、支え、明日を紡ぐ毎日が、俺は幸せで仕方ない。ただ、そう思った。

 

「幸せだよ。俺は今、幸せだ」

 

胸を張ってそう言えた。幸せだから、俺は、生きるよ、今日も。お前の代わりに。

 

「それはよかった。…喜助先輩、最後に一つ、よろしいですか。」

 

最後に一つ。それはつまりきっと、この夢が終わるということだ。つきものが取れたかのように晴れ晴れしい気分でああ、と短く返した。

 

「…幸せに、なってください。喜助先輩。……先輩は、幸せになるだけの努力を、もう十分にされてますから。……お願いです、過去に、私に、縛られないで。」

 

涙混じりの声が、ゆっくりゆっくり懇願を紡ぐ。唇をかみしめた。幸せになってください。脳内に反響する言葉に、深く、深くうなずいた。

 

「幸せになるさ。お前も、みんなも、一緒に、な。」

 

 

 

白んでいく意識。夢が終わる。単一な色彩の中で目を閉じる瞬間、本当に本当に久しぶりに、阿雲加奈の純粋な笑顔を見た気がした。