エゴと愛憎/いつか見た彼の憧憬

水上紅蘭は人に優しい。

 

それは、

ただのエゴであり、

慈愛であり、

目標であり、

信念であり、

彼が彼たる所以で、

 

彼が今、生きている理由であった。

 

***

 

水上紅蘭には親友がいた。

 

幼稚園に通っていたころから仲の良い、いわば親友だ。災害で両親を失い孤独だった彼は、やんちゃをして警官の世話になることがたびたびあった。その時の経験からか、彼は幼いころから警官を志しており、だから紅蘭は自分もきっと警官になる、と、そう決意していたのだ。小学校に上がり、中学校に上がり、高校に上がり、二人そろって警察学校へ入学し、そして二人は晴れて警官となった。

彼には高校時代に恋人が出来ており、これから一緒に住むらしい。……いつか結婚式を挙げるのだと話していた。紅蘭にも優しく接する彼女は、家族のいない自分を愛してくれた光なのだと。そしてそれは紅蘭も同じで、だから、式では、紅蘭にスピーチをしてくれ、と。日々公安部で仕事に励む彼は、毎日が幸せそうだった。

 

その、矢先のことであった。

 

彼の恋人が殺された。

強盗犯に殺されたのだ。彼が公安として出向いた強盗事件で。彼の目の前でいとも容易く、大切だった命は奪われた。彼の初めての家族であった、お腹にいた子供と共に。

紅蘭はその日から髪を伸ばし始めたが、彼はその時警官を辞めた。日々自分の行いを悔いて、泣いていた。あの時自分が正しい行動を出来ていたら、自分が命に代えても彼女を守っていたらと。懺悔し続けて生きていた。廃人のように成り果てた彼を、しかし紅蘭は見限らなかった。彼がどうにか立ち直れるように、どうにか前を向けるように。数日置きに家に向かい料理を運んだ。最初は跳ねのけていた彼も、しばらくすると食器を空にするようになる。紅蘭はそれを喜んだ。彼が食べたいと思える料理を。その一心で、必死で料理の勉強をした。時には、お菓子を。時には、飲み物を。紅蘭の出来る限りのことで、自分を導いてくれた彼に報いようとした。年単位で時を経て、ようやっと彼は少しずつ笑えるようになっていた。紅蘭はどうにか、彼にまた、笑顔で立ってほしかったのだ。

 

届いていると思っていた厚意は、しかし彼を繋ぎとめることは出来なかったのだけれど。

 

***

 

その日は朝から強い雨が降っていた。雷を伴う大雨は数日前から続いており、親友の家に向かう足が数日途絶えてしまったことを、紅蘭はとても心配していた。

 

(ああ、酷い雨だな……傘なんて、持ってこない方が良かったかもしれない)

 

足がずぶぬれになる。元々そこまで都会ではないこの街で、こんな天気の中ほっつき歩く阿呆はいなかった。道路を行くのは自分だけ。格安で借りたのだという彼の古いアパートは、雨漏りしていないだろうか。それが心配になって、ぐしょぐしょになった服にも構わず紅蘭はアパートへの道を急いだ。

 

「……?」

 

すっかり長くなってしまった髪から、ぽたりぽたりと水滴が落ちる。アパートの鍵は開いていた。いつもなら鍵がかかっていて、チャイムを鳴らすと歪んだ作り笑いの親友が自分を出迎えてくれるのに。

 

「……いないのか?」

 

親友の名を呼びながら、紅蘭は彼を探した。普段からあまり生活音のしない部屋はいつにも増して静かであり、その分ゴロゴロと鳴る雷が不気味だった。大雨だと言うのに薄明るい部屋の中、紅蘭は如何ともしがたい不安を胸に抱えて部屋を探し回った。そして紅蘭は、狭いアパートの異変に気が付く。

血の匂いが、する。

匂いの元は、彼の恋人の寝室だった。恐ろしい不安に襲われながら、紅蘭は震える手で扉を開ける。

 

「   、 ?」

 

親友は、首を吊っていた。

 

自ら命を絶ったのだと、分からない訳がなかった。彼の腕や、足や、首元にはいくつもの傷痕があり、べっとりと赤黒い何かがこべりついた包丁が床に落ちている。そこには、明るく自分を先導してくれた親友などいなかった。自分を自分でいさせてくれた大切だった親友は、……愛おしかった恋人を亡くし、未来を亡くし、生きる意味を失った。そして紅蘭は今、その親友だった男の前に佇んでいる。

 

「あ……ぁ、……なんで、…………ッどうして……!」

 

涙すら、出なかった。掠れた声が部屋に反響する。物言わぬ遺体は虚空を見つめていた。異臭の漂う部屋の中で、紅蘭は1人ただ叫ぶ。

 

雷の轟く、大雨の日のことであった。

 

 

 

彼の葬儀は慎ましやかに執り行われた。遺族のいない葬式は、只管に静かで、涙声一つ聞こえることはなかった。沢山の百合が、強く香る葬儀場。紅蘭はただ無表情であった。

 

「……」

 

紅蘭は棺桶の親友を見下ろした。あまりも、あっけない死だった。二十数年あまり、ずっと自分の道しるべ、さながらポラリスのように自分を導いた彼は、愛しいひとを失ってから変わってしまった。紅蘭がなくしたものは、あまりにも大きすぎた。

警察の調べでは、当時の彼を取り巻く環境と彼の遺体の状況から、死因は自殺との判断が下された。あの日しかるべき所に連絡を繋いで、その後も彼のために駆けずり回っていた紅蘭が、身寄りのない彼の親友として喪主を務めた。

 

 

 

「……………ああ、いいんです。ばっさり切ってしまってください。」

 

大切だった親友の、葬儀場からの帰り、

 

水上紅蘭は、伸ばしていた髪を断ち切った。

やはり涙は流れなかった。

 

 

***

 

 

長い時は経ち、紅蘭は変わらず公安として働いていた。そんな紅蘭に転機が訪れたのは、33歳の時のことだ。いつものように強盗犯への対応に駆り出された紅蘭たちの班は、難航する交渉に業を煮やしていた。犯人は聊か乱暴な上に興奮状態にあるらしく、20歳ぐらいの女性が人質の中でも特に危険な状態らしかった。紅蘭は冷静に対処をしていたつもりだったが、……とある少年の一言で、事態は大きく動くことになる。

 

 

「殺すなら、……………じゃなくて、俺を殺せ!」

 

叫んだ彼は紅蘭の顔馴染みだった。姉の話は少年から聞いていたが、とても仲の良い姉弟だと母親が言っていた。たしかに、それは本当らしい。けれどそれは、今気付きたくない事実であった。大切な、大切な、姉なのだろう。だからこそ少年は、命を投げ出すようなことを。それは、紅蘭の心を深く抉るのには十分だった。

 

「うるせえ、黙れガキ!」

「ッ、」

 

拳銃が、九条和夜に向けられた。

 

「動くな!」

 

立て続けに二発、拳銃の音。赤い花が床に舞い散る。紅蘭は男に体当たりをした後床にねじ伏せ、腕を捻り上げていた。その太腿からは血があふれ出ている。

 

「水上!お前、何をしているんだ!」

 

上司の怒鳴る声も遠く、紅蘭はただ男を確保しようと躍起になる。身じろぐ男を抑えつけ、拳銃を蹴り飛ばした。

 

(今度は間違えない、今度は、今度はきっと、……もう、あいつみたいに失わせたりしない……!)

 

ただ、その一心だった。

 

 

その日紅蘭は銃弾に太腿を貫通され、一時歩けないほどの怪我を負った。そして彼は病室で、現状把握能力に著しく欠けるとして出された辞令を、静かに握ることになった。

 

 

紅蘭は、今まで生きてきた証しだったものを、今度こそ全て失った。

もういない彼の残影に支配されたままずっと守ってきた虚像を、失った。失えた、とも言えるかもしれない。

 

 

「全部、なくなっちゃったなあ」

 

あっけらかんと笑う紅蘭は、しかしどこか穏やかな表情をしていた。親友のため磨いたままに活かしきれなかった料理の腕を、今度は何に使おうかと思案していたのだ。

 

***

 

そんな彼が始めた、喫茶店。客の入りは上々だった。小さな店だったが口コミなどで人気は伸び続けそれに比例するようにメニューも増えた。紅蘭はとても、満足していた。

 

「やあ、いらっしゃい。今日も来てくれたのかい?まあ、ゆっくりしていきなさい」

「ああ、メニューを増やしたんだ。季節限定だけどね、せっかくだから旬の食材を使えたらと思って」

「……よく気付いたね。コーヒーの淹れ方を変えてみたんだよ。君はどっちが好みかな?」

「悩み事があるのかい?私では力にはなれないと思うが、話すだけでも楽になるかもしれないよ」

 

そんな喫茶店長の元に、十数年後、亡くした親友にも紅蘭自身にもよく似た彼はやってくる。

 

 

『らくになりたい……』

 

 

大きな荷物を背負って生きている真っ直ぐだった青年の、小さな小さな、けれど重くて苦い懇願は、雷の唸る大雨の中呟かれた。

 

水上紅蘭はその声を、忘れられずに生きていく。

 

 

***

 

 

水上紅蘭は人に優しい。

 

それは、

ただのエゴであり、

慈愛であり、

目標であり、

信念であり、

彼が彼たる所以で、

彼が今、生きている理由であり、

 

彼が二度と、愛おしい何かをなくさないための行為であった。