『小太刀 喜助』と憂鬱の色

びくり、と、大げさなほどに体が跳ねた。

ざあざあと降りしきる雨の中、雷ががなり立てたのだ。薄明るいリビングはドアも窓も閉めカーテンで遮断してもなお、雷雨の音で満たされていた。

 

「……、紅蘭さん」

「うん?」

「大丈夫、ですか」

 

目は、合わない。ちらりとこちらを伺うように持ち上げられた視線も、すぐにさっと外され本に向く。けれどその表情には、確かに心配の色が滲んでいた。

 

「……ああ、うん、……ありがとう。……雷雨の日はね、少し嫌なことを、思い出してしまって。……トラウマ、というか。いや、はは、そこまで酷いものでもないんだけれど。」

 

冗談めかして笑ったら、また、大きな雷ががらがらと唸る。

 

握り込んだ手が、思っていたよりも冷えていて。

 

「ッ、……」

 

澱んだ空気。分厚いカーテンに遮られて、光のない薄暗いアパートの中。眩暈がしたような気がして、さっと血の気が引いていく感覚に強く目を閉じた。

違う。違う。違う。ここはあの場所じゃない。

違う。違う。僕がいるのは、彼の隣ではない。

 

貧血にでもなったかのような感覚に指先が震えて、ふ、と息を吐く。歯の隙間から漏れ出た息がひゅうと音を立てて、ごろごろと呻く雷が、僕とあの日を繋いで。

 

『……どうして、……花澄、…!』

 

悠音の声と、雷が重なる。心を苛んでいく記憶たちが、胸の奥底から僕を食い荒らして泣いている。

 

(……ゆう、と……………)

 

ともすれば、彼の名前が口から零れ落ちてしまいそうなほど、雷雨は僕を追い詰める。

呼吸が、苦しい。肺を圧迫されているような気分だ。

 

ひゅ、と、喉の奥から掠れた空気が漏れたとき、

 

 

「紅蘭さん。……大丈夫、ですから」

 

 

冷たい雨の、記憶の糸がふつんと切れた。

 

「…喜助、くん、…?」

 

あたたかい手が耳を覆う。

雷鳴も、雨滴の音も、彼の声も、……全てを、青年がさらっていく。

 

「大丈夫です。……俺が、いますから」

 

ふっと瞼を持ち上げた、……そのとき、はじめて、喜助くんと、目が合った。

 

「……、…あ、」

 

モノクロの世界の中、彼の、真っ直ぐで深く穏やかな瞳だけが鮮やかだった。

汚れた世界でたったひとつ、彼だけに、色が付いていた。

 

「……、」

 

何かを、言おうと、思ったのに。

はく、と口が動いて、………、…ありがとう、…ごめん、…どうして、…きすけくん、と。浮かんだ言葉はいくつもあるのに、それらは何一つ声にならずに、喉を伝って腹に溶ける。

 

「……紅蘭さん」

 

確かめるように、呼ばれた名前。

ああ、ああ、そうだ。きみは、あいつじゃないね。だって彼は、僕を、水上、と呼んでいた。

緑がかった美しい目が僕を射ぬいて、ただ静かに凪いだ慈愛に包み込まれる。塞がれた耳に雷鳴が入ることはなくて、けれど、彼の言葉は、確かに僕に響いて。

塞がれた耳に、それでも届く彼の声。震えていて、小さくて、けれど、…しっかりと、僕を呼ぶ声。

目を合わせるのがつらいだろうに、手を、声を震わせながら、喜助くんは僕を呼んだ。大丈夫、と、そう言って。

 

初めて僕は、彼の瞳を見た。いつかの雨の日の、何かに支配され続ける彼とは違う、ただ真っ直ぐな瞳を。

 

「……きすけ、くん」

「はい、なんですか」

 

そのとき、僕はようやっと、

『小太刀 喜助』という人物を、……知ることが、出来たのかも、しれない。