酩酊したような、混濁とした眠りからふっと意識が浮上した。ともすればとろとろとまた眠ってしまいそうな心地よさの中、私はゆっくり目を開く。いつも通りの、私の部屋。年単位で時が経っても、お母さんは変わらず私の部屋を、あの日の、あの時のまま綺麗においてくれている。
いつ帰ってきても、使えるように。
いつも、この部屋を掃除しに来るお母さんが、辛そうな顔をしているのを知っている。
毎日、この部屋を見に来るお母さんが、泣きそうに唇を噛み締めるのを知っている。
いつだってその事実は私の心に深く刺さって、遺してしまった罪悪感と、戻りたいって気持ちが交ざり合って心臓の奥に溶けていく。
世界は今日もいつも通りだ。
いろんな事件が起こったり、誰かがいなくなったり、喧嘩が起こったり、新しい人と出会ったり。穏やかなだけじゃない日常の中で、苦しんでいる人もいる。泣いている人だっている。
優しい優しい、私の親友。その笑顔を守るために凛と立っていた先輩、そして同僚。
とっても負担をかけてしまったけど、今日も元気に笑っているだろうか。
職場を見に行こうとして、ふと思い至ってリビングに向かう。
ソファに座ってテレビを見てるお母さんの手を、そっと握った。
「いってきます、お母さん。」
届かないなんて、わかってる。
いつも通り街を見回って、それから時計の針がてっぺんを回って少し経ったころに、昔の職場に向かう。
喜助先輩はちょっと前まで、数か月間入院していた。
路上で突然倒れて、友人さんに運ばれたらしい。まるで何かに抗うような日々を過ごして、退院してからもぼーっとすることが多くなった。まるで何かから逃げているような、そんな印象。私は心の中には入れないから、喜助先輩が何と戦っているのかわからない。触れることも出来ない私には、喜助先輩の手助けをすることは出来なかった。あんなにお世話になっているのに。
職場のみんなも心配していて、どうしたんだろうって気にしながら、けれどそれを表に出さないように必死に働いていた。喜助先輩が入院している間の穴埋めに、みんな四方八方に飛び回って。やっと戻ってきた喜助さんが眠るのを恐れてか、何日も何日も徹夜していることもみんな知ってた。今日だって、そうだった。今日は4日目、だったっけ。目の下の隈は日に日に濃くなって、時折見せる虚ろな瞳がたまらなく心配だった。
職場の扉を開けると、喜助先輩は机に突っ伏して眠っていた。
(うたた寝でもしてるのかな?)
そう思って近付いたら、微かに声が聞こえてきた。
「……あぁ、あ、やめ、………やめろ………」
何かに抵抗している、か細い声。
「喜助先輩!」
叫んでも、聞こえない。喜助先輩には聞こえない。
「喜助先輩、喜助先輩!」
喉に痛みが走るほど大声を上げても、喜助先輩には届かない。届くはずが、なかった。
「……う、ああ、…あ、…ぁ……」
苦しそうに呻く喜助先輩の肩を揺すろうとして、すり抜ける指に悲しくなった。どうして、どうして触れられないんだろう。どうして私は、お世話になっていた先輩を助けることすら出来ないんだろう。
その時、唇を噛む私の耳朶を打った、喜助先輩の声。
「あ、…ッぁ、……………………た、すけ……ッ」
声にもなっていない微かな言葉だった。けれど、それはちゃんと私に届いて。
「喜助先輩!喜助先輩!お願い、起きて…!喜助先輩っ!」
お願い、神様。喜助先輩を、私を、助けて。
喜助先輩の隈をつうっとなぞり、泣きそうになりながら名前を呼んだ。何度も何度も、声が掠れるほどにたくさん。先輩の声が弱まって、掠れた息が言葉を紡がなくなって。それがあまりにも恐ろしくって、私は必死に声を上げる。
「……きすけ、せんぱい!」
ひときわ大きな声で叫んだ、ときだった。
ふわりと風が吹き込んだ。それはまるで喜助先輩の悪夢をさらう波のように部屋に吹き込んで、ふっと頭を起こした喜助先輩が、もう苦し気な表情をしていなかったことに安堵を覚えた。
(……ああ、よかった。……喜助先輩、目を覚ませた)
胸をなでおろすと、喜助先輩はゆっくり二つ瞬きをして、それから小さく呟いた。
「……阿雲………?」
ひゅう、と、さっきよりも強く風が吹く。カーテンで遮られていた日光が、喜助先輩の肩にかかる。
嗚呼、ああ、なんで、どうして、そんなに真っ直ぐな目をして私を呼ぶの。どうして、どうして私に気が付いたんですか。
どうしようもないぐらいに悲しくて唇を噛み締めた。けれど、喜助先輩が目を覚ませて、よかった。ふっと溜息をついたとき、部屋からがたりと音がした。
「……………加奈……?」
いつの間にか部屋に入ってきていた秋恵が、震える声でそう呟いた。困惑しきった顔で私の名前を呼んでいたけれど、見ているのは私じゃない。さっき私を呼んだ、喜助先輩の方だった。
そりゃそうだよね。瞬きをすると、視界も頭もすっとクリアになる。喜助先輩の方を向いたまま唇を震わせる秋恵に、ゆっくりと近付いた。
「ごめんね、ごめんね、秋恵。あなたと話せなくて、触れられなくて、大丈夫だよって言えなくて、ごめんなさい。」
泣きそうに顔を歪める秋恵を、そっと抱き締める。指先は、腕は、もちろん秋恵の肩をすり抜けた。
「……加奈……」
秋恵が唇を噛み締めた。ああ、だめだよ、そんなに噛んじゃ、傷が出来ちゃう。そう声をかけても、届かない。
私まで泣きそうになって、秋恵の肩に顔を埋めた。
ごめんね、ごめんね。ごめんなさい。泣いていいのは私じゃないね。
檸檬色の風がひゅうと吹き込む。実に穏やかな昼下がり、みんなを置いていった私の贖罪は、ずっと、永遠に終わらない。